ロナ
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<絵本や昔話のメッセージを紐解く①>
.~花さき山~
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花 さ き 山
作/斉藤隆介
絵/滝平二郎
発行所/岩崎書店
<ストーリー>
山菜を採りに山に入って迷子になった10歳の女の子あや。あやは不思議な花畑で山姥と出会う。山姥は不思議な花が咲く理由を教えてくれた。里の人がやさしい行いをすると花が咲くのだと言う。あやは妹の着物を買うために、自分の着物を買うことは我慢したのだ。そのとき咲いた花があやの足元にあった。
山姥は、さらに「八郎」と「三コ(さんこ)」という命を投げ出して村人を救った話を聞かせ、命をかけると山ができるのだとも言った。
あやは家に帰ると両親にこの話をした。だが、誰も信じてくれなかった。もう一度山に入っていったが、あの花畑にも山姥にも会えなかった。それでも、時々、あの花畑に自分の花が咲いたと感じるのだった。
インターネットでこの本のレビューを見ていたとき、「誰かのために我慢することが良いことなのか」という感想を書いている方が、複数いました。妹のために、自分は新しい着物を買ってもらうのを諦めた主人公の行動を「自己犠牲」と感じ、このような自己犠牲を良しとする絵本はどうなのだろう、という疑問を投げかけていました。さらに、今の世の中、結局心のやさしい人(弱者)は強者に虐げられているということも。
確かに今の世の中を見るにつけ、持つものと持たざるものの格差は拡大しています。そのような視点で読めば、「なるほど」と頷けないこともありません。
ですが、これは自己犠牲の話ではありません。ただし、自分の誠意や愛情を利用されたり奪われたりする恐怖心があると、自己犠牲と感じてしまうのかもしれません。そしてもう一言付け加えるならば、自分自身を弱者とか強者だと思っている人は、同じレベルの世界にいるということです。強者は強者で自分の手にしているものに固執し、弱者は弱者で手にすることのできない何かに固執しているのです。
それでは、この本に込められたメッセージとは何でしょう。斉藤さんと滝平さんが描き出した世界は、心の豊かさを表現しているのです。あやが迷い込んだ花畑は心の中なのです。その花々は、お金や物で得られる花ではないのです。
あやは自分の着物を諦めたとき、それは切なかったに違いありません。けれども、あやはその切なさに執着していないのです。その上「どうせ私が我慢すれば・・・」なんてことも思っていないのです。だからこそ、花を咲かせたのです。その行為の根底には、妹や母親への純粋な愛があるのです。
この物語の中にも登場する「八郎」と「三コ」。(この物語も、それぞれ絵本になっています。)二人は村人たちを救うために命を落とします。この物語に関しては、「自分が生きている」ことの使命について語られていると思います。八郎も三コも普段から村人たちに対してやさしい気持ちで接していました。ところが八郎は田畑をいっぺんにだめにする高波に、三コは燃え広がりそうな山火事を前にして、自分の体で防ぐのです。二人は、そうするために、今自分がここにいるのだと感じているのです。
「八郎」も「三コ」も強調して書かれていますが、要するに、誰でもその人にしかできない事があり、そのために今この世界に生きているということです。
作者の斉藤隆介さんは1967年に「ベロ出しチョンマ」という短編童話集を発表しました。この作品もその童話集に収められています。日本が敗戦の悲しみや喪失感から目を逸らし、高度成長への道をまっしぐらに走っていた頃です。自動車や高価な家電、マイホームを手に入れることで幸せを得られると思い込んでいた時代です。
誰もが物質的な豊かさを求める中で、他人と比較しては物質欲を高めていきました。そのことは恐れや怒りなどのネガティブな感情を大きくし、反対に、愛は心の奥底に埋もれてしまったのです。
この短編集を読むと、どの作品にも作者の細やかなやさしさと、登場人物に込められた純粋な愛を感じずにはいられません。
斉藤さんと滝平さんが伝えたかったのは、本来誰もが持っているこの愛を思い出して欲しい、見失わないで欲しい、大切にして欲しいということではないでしょうか。
記事ご提供:ロナの小部屋