松川サリー
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<日本人>その二
.「ミルカさんの最初のワーク」~自己を主張すること~
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ミルカさんの日本での最初のワークショップ、これは、震災によって傷付いている、あるいは落胆している感情を、処理し、浄化するためのセラピーでもありました。東日本大震災に直接関連したワークは、後にも先にもこの時だけ、でしょう。ミルカさんは、生徒たちに、震災についてどう感じているかと尋ねました。
辛抱強いとか、助け合っているとか、整然と行動しているとか、日本人の印象を答えた生徒もいました。共通の心配事は、原発と放射能、だったかもしれません。
「日本人は、感情を抑えていますね。ヨーロッパ人のように、もっと自分のことを考えてください」ミルカさんは、生徒たちの発言を聞いたあと、そう伝えました。同時に、「個人主義のヨーロッパ人たちは、逆に、日本人から、仲間、グループで何かをするということを学ばなければなりません」とも。さて、これは、とても端的な真相ではないでしょうか。ミルカさんも、そしてイルカさんも、日本人を憂えているのです。それはつまり、上記の、感情を抑えている、という言葉に集約されましょう。
日本人は、社会的組織のなかで多くを語る人を、あまり良く思いません。それを知っているので、静かにして、聞き分けが良い人のように振る舞います。
長いものに巻かれて、上司には楯突かず、ときに胡麻をすり、次第に、どうしたら自分が悪く見られないか、ということばかりを考えていくようになります。それが処世術だ、と。そうこうしているうちに、本当の自分を忘れてしまいます。これは、一見、自分のことを考えているようでもありますが、実は、ミルカさんが言うところの「もっと自分のことを考えてください」の「自分のことを考える」とは、いささか趣きが違っているのです。周囲の目を気にして、本当の自分を押さえ込んでいるだけです。
おそらく、日本人は、皆、そのことに気付いているのです。日本人の嫌な感じ、に。今は少なくなったかもしれませんが、少し前までは、海外に行って日本人と会いたくない、という人も少なくなかったように思います。日本人のいないところに行きたい、と言って行き先を考える人も多くいました。そのほうが垢抜けた感覚を味わうことができたのかもしれません。実際のところ、日本人は、外国で日本人とすれ違っても挨拶もしない、ということもありました。いつも自己卑下している、それが、日本人だったのでしょう。いいえ、それは現在進行形です。外国で会う日本人が嫌い、ということは、日本人である自分も嫌い、ということになります。少なくとも、好きではないのでしょう。
兎にも角にも、ミルカさんが私たちに向かって発信していたことは、自己主張しなさい、ということでした。発言しなさい、語りなさい。原発事故に関しては、国にプレッシャーをかけなさい。なぜ日本人は語らないのでしょう。言葉のせいでしょうか?民族性、国民性でしょうか?
不思議なことがあります。
外国人記者クラブに呼ばれた著名人が、何とも流暢に喋る姿。外国へ行ったとき、外国語で、あるいは日本語で、べらべらと陽気に自由に話しをする政治家。そんな様子を目にした方々も多くおられましょう。何かから解放されるのでしょうか?外国語が、日本語よりも率直で、曖昧でない分、気持ちもそれに合わせていつもよりも大胆になる、ということでしょうか。著名人や政治家だけではないでしょう。私たちも、外国語を使うときには、日本語で喋るよりも、よりフランクになる、ということがあると思います。言葉と思考、思考方法は、密接につながっています。そして、それは、民族性の根底にあるものでもあります。
このように、日本人を黙らせているのは、言葉の曖昧さ、も影響しているのでしょう。そしてそれは、権力者たちに抵抗する術を行使できない、という気風をも生み出しているのかもしれません。
しかし、今年になって、多くの一般市民たちが、自己主張を始めました。これは、今までになかった出来事です。そのことに気付いていない知識人たちもいて、いまだに古い考えを押し付けようとしていますが、彼らは、変容についていけていない人々です。まだまだかもしれませんが、一年前にミルカさんが伝えてくださったこと、感情を押さえ込まずに、発信、発言すること、その波動、意識が、日本人に広がり始めています。ネガティブをポジティブに変えようとして。
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