松川サリー
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<スピリチュアル・ロゴス>
.~利自即利他~
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<スピリチュアル・ロゴス>
聞きなれたスピリチュアルな言葉を、新しい観点から解き明かし、本当の概念を復興させていきます。また、言葉を知ることで、魂の真実に近付いていきます。
自分を利することが、そのまま他人を利すること。
これは、理想の世界観ではないでしょうか。「利他愛他」ではなく「利自即利他」。
自分を利することが他人をも利する。仏教的には、自分の仏道修行が他人、つまり大衆を救う、というような意味合いなのでしょう。
私は、こう解釈します。
ともすると、誰かの犠牲の上に成り立っているかのように見える誰かの利益。実はそうではないのだ、と教えている言葉が遥か昔からあったのだ、と。
私たちは、自分を利することは良くないことだ、と教えられてきませんでしたでしょうか?光明的な家庭に育った人は、その反対かもしれません。しかし、どちらかと言えば「利他愛他」、ひたすら相手を利することが良いこと、それが善人、という観念は意外と根付いているものです。そして、そう思いながらも、自分の得にだけなるような振る舞いをしている人ほど、力を持っていたりするのが世の常、といったところでしょうか。
分かりますか?とても矛盾していますよね。
積極的ではないにしても、何気に、自分のために一生懸命になっている人を、自分のことばかり、という目で見ることはありませんか?
なかには強欲に自分のことばかり、つまり、他から奪って、他を踏み台にして、そして自分の利益を追求している人もいます。それを「利己」と言います。意識的にそうしている人もいれば、無邪気にそうしてしまっている人もいます。
基本的には、それを見ている側、他人の成功や得たことを見ている人が、それをどう思い、どう感じ、どう受け止めるか、ということが大きな要素になります。
人の成功を心底喜べる人は、世界にどれだけいるでしょうか。
人は、他人の成功を喜ぶことで、自分にも成功の種を植えることができます。
他人を認めることで、自分をも認めることができます。逆に言えば、他人を認めることができない人は、自分を認めていない、自分を傷付けている、ということになります。
簡単に言えば、利自即利他とは、そういうことです。自分の幸福は他人の幸福と、他人の幸福は自分の幸福と、つながっているのです。
自分が不幸になることで、他人の幸福があるのではありません。とはいえ、有頂天になって他人の羨望を買う必要はありません。その一方、無闇に他人を羨むこともしなくてよいでしょう。否、してはいけません。
そして、もうお分かりかと思いますが、他人が不幸になることで、自分の幸福があるのでもありません。
不思議なことに、自己犠牲的精神を善として人の幸福を願う反面、人は、他人の不幸を見て、自分の幸福を感じることがあるのです。
いえいえ、そんなこと私は絶対に感じませんよ、あなただけでしょう、と皆様はおっしゃるでしょうか?
私は、ずっと以前、知り合いのお坊さんに尋ねたことがありました。
「人に対して良くない思いを抱いてしまったりすることがあるのですが」と。修行を積んだお坊さんなら、きっと心も整えられていることでしょう。どんなにか悟り高い言葉が返ってくるだろうか、厳しい叱責かしら、と思っていましたところ、「私もありますよ。色々な人とお話しをさせていただき、相対しているなかで、それは私だって、様々な思いが心を過ぎります」とおっしゃったのです。
私の心は救われました。そして、いかにも聖人君子ですと言わんばかりの助言を上から目線でする人よりも、このお坊さんは、ずっとご立派な方、ご自分の心と正直に向き合ってこられた方なのだろうと、ご尊敬申し上げたのでした。
人は、なぜか他人には厳しく、人の未熟な面に敏感に反応しながら、自分には甘く、あるいは気付いておらず、その指摘内容とまったく同じことをしていたりしますので。
利自即利他は、相互的です。いわゆるパイの奪い合いではありません。
自己実現的、あるいは自己啓発的助言に従えば、自分のわくわくに従う、自分の好きなことをしなさい、やりたいことをやりなさい、それが、他の人の幸せにもつながります、ということです。光明思想をも超越した、実は、宇宙的法則だったのです。
ただし、自分勝手、身勝手、利己主義、自己中心、とは違いますよ、ということを付け加えておかなければなりません。
いつ何時も、我が身を振り返る力、は必要です。その上で初めて、利自即利他の法則は、健全な愛と光を発することができるのではないでしょうか。
これはユートピアの原理かもしれませんね。
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