松川サリー
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<子供を育てるということ①>
.~親から伝わる価値観~
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「子供は3歳までに一生分の親孝行をする」という言葉を聞いたことのある方もおられることでしょう。
この言葉の意味は、人によって様々に解釈するかもしれません。逆手に取って、もう十分に親孝行はしたんだから、と傲慢に言い放つ娘や息子もいることでしょう。これまで経験したこともない子供との暮らしが始まって、その大変さに苦労しているとき、誰かが掛けてくれたこの言葉に心がほどけて涙した、というお母さんもおられるでしょうか。そのとき、お母さんは、この言い伝えの意味が一瞬にして腑に落ち、幸せな感覚をかみしめたかもしれません。
子供を育てる、ということは、子供に育てられる、ということでもあります。
子供の成長とともに、親も成長していきます。初めてのことを学びながら、たくさんのことを体験していきます。病気を心配したり、幼稚園や学校のこと、習い事、お友達ができるかしら、と思いを巡らしたりもするでしょう。将来の職業について、あれこれ考え始める両親もいることでしょう。
同時に、子育てをしながら、子供の成長に関わりながら、自らの子供時代を振り返ることができます。そのようなチャンスを、私たちは、子供という宝とともに神様から与えられている、と理解しても良いのではないでしょうか。
自分もこうだったのだろうか、とか、お母さん、大変だっただろうな、などと深く感じ入ったりします。幼稚園や小学校に入れば、通園バッグやお弁当、幼稚園バス、お遊戯会、ランドセルやその他学用品、夏休みの宿題、発表会、父母会で行く教室の様子や匂いに、自身の幼い頃の思い出がふっと心をよぎることもあるでしょう。持ち物に我が子の名前を書きながら、自然と、自分の親に感謝しているかもしれません。
ところが、時代を問わず、親は、子供を自分の所有物と勘違いしがちです。明らかにそのような心持ちで育てている両親が、残念ながら、大半のようです。
昔でしたら、たくさんの子供を産んで、家の仕事を手伝わせる、稼ぎ手として期待する。現代社会では、より良い服を着せて、より良い学校へ行かせ、親の思う通りにさせて、親のプライドを満足させる。
いずれにせよ、子供の「人格」を無視して、親の価値観を押し付け、植えつける、そういった関わり方です。そこには、世間体や見栄、というものが介在している場合もあります。
その親の価値観はどこから来たのでしょう。
その親の親からです。価値観は、先祖代々、連綿と続いている、と言っても過言ではありません。変えようと思えばいつでも変えられるのに、それを金科玉条のごとくつかまえていて、縛られ、そして苦しんでいます。
あるいは、友人たちから、学校の先生、教育から、自分の周囲のあらゆる人々、世界、社会そのものから。現代ですと、テレビや新聞、雑誌などのメディアから、極めてこの世的な競争心や嫉妬心、焦燥感を煽る情報を得て、その価値観に振り回されることも多いでしょう。巧みに誘導されることもあります。
人は、考えなしに、何の疑問も抱くことなく、教え込まれた通りに反応し、行動してしまいがちです。もちろん、教え込まれたなどとは、思ってもいません。自然と身に付いていて、それが、自分を苦しめているとか、別の価値観があるのではないかとか、疑ってみたこともない、というのがごく普通のことでしょう。
親に暴力を振るわれた子供は、子供に暴力を振るう親になる可能性が高い、と言われています。大抵の場合、気付いていないことが多いですが、少し敏感な人ですと、そのことが怖くて、結婚もできないし、結婚しても子供を持つことを避けようとします。自分が自分の子供に暴力を振るう親になるのではないか、と恐れているからです。はっきりとそう言い訳をして、子供はつくらない、と宣言している人もいます。でも、子供に暴力を振るわなかったとしても、もしかしたら、その人が男性なら、奥さんや恋人に暴力を振るってしまうかもしれません。
そうした物理的側面ばかりではありません。習慣や精神面でも、親から受け継がれるものはたくさんあります。
習慣として私がよく挙げさせていただく例は、目玉焼きの食べ方です。ある人は、お醤油で目玉焼きを食べるのですが、それは、どこの家庭でも同じだと思っていました。ゆえに、目玉焼きをソースやお塩で食べる人がいることが信じられないのです。信じられないと思っているだけなら良いのですが、批判したり、責めたりする人もいます。その評価と同じように、その人は、自分の価値観が唯一で、それ以外のことをする人たちは、自分の価値観の範囲からはみ出しているので、理解できないし、信じられないことをする人々、というレッテルを貼ります。価値観というのは多様なものだということを教えてもらっていないのか、あるいは、自分でそう考えることを拒否したり、考える機会に気付かないまま過ごしてしまったのでしょう。とても悲しいことです。そのようなところから、いじめ、というものがはじまったりすることもあります。
目玉焼きの例をバカバカしいと思われた方も多いでしょうが、こういうことなのです。そうです。価値観を固持して視野が狭いということは、こんなに簡単で、バカバカしいことなのです。
精神面で受けてきた親からの躾けや価値観という名の暴力は、トラウマ、という言葉で表せましょうか。お菓子を食べてはいけないと厳しく育てられたある女性は、結婚して親元を離れますと、必要以上にお菓子を食べてしまう、そして、今度はそのことに悩まされる、という体験をしました。ある人は、親のネガティブな言葉がいつも自分を責めていて、何かをしようとするときに勇気が持てず、良いアイデアを思いついて行動を起こそうとする度に、親のネガティブな声が聞こえてきたりしました。
そうした人たちは、自分に子供ができたとき、どう育てていくでしょうか。
ほとんどの場合、同じような価値観を植えつけていくことになるでしょう。あるいは、自分が嫌だった体験に気付いて、別のことをするかもしれません。反応型ですと、極端に逆のことをして、結局は、自分がされて嫌な思いをしたのと同じような結果を招く縛りを、子供に与えることになります。子供が自分のようにならないようにと、一生懸命なのですが、恐怖心からの行為なので、良い方向へ行きません。
しっかりと自分を見つめ、世間や背景を見つめたことのある人は、自分の子供にとって何が良いことかを見極めて、与えてあげることができます。
そして、子供とともに成長していくことができます。もちろん、いつも順調ということはありません。ときに立ち止まり、悩み、考え、より良い選択をしていきます。
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