タイトルはちょっと怖いですが、さて、四月に入ろうかという今日この頃。
四月は新たな期の始まりであり、別れの時でもあります。
新たな環境に戸惑う自分を慰めたくなる時もありますね。
マンボヤディレクターのディルクさんのこのエッセイのタイトルは過激ですが、
(ちょっと疲れてしまったな。)という自分に甘やかすのではなく、
優しくしたい時に最適なエッセンスを教えてくれました。
春は憂鬱になりがちなものです。
このエッセンスで乗り切ってください!
死を恐れることなく
死に対する恐怖がどのように影響し、死の恐怖が引き起こすパニックが
いかに個人の人格に深く刻み付けられるのか?それに利点はあるのでしょうか?
進化心理学では、もし石器時代の女性が近頃ウサギをプレゼントしてくれる素敵な毛むくじゃらの彼氏と、
洞窟の中に居る彼と同じくらいに毛深いけれどもちっとも可愛いくない熊を見間違えてしまったら・・・
彼女の命は無くなっている事でしょう。
つまり、どこが安全でどこが危険な場所かを素早く覚えておかなければ、一寸先には大けがをする
危険があるのです。彼女が危険そうだと感じる怪しい洞窟は、恐怖という間違う事のない感情を与え、
彼女は本能的にその洞窟を避けます。
この危険なものを記憶し、自動的に湧き上がる恐怖という感覚が無ければ人類は生き残れなかったでしょう。
ですから現代の女性でも地下駐車場に入る時、非常に不愉快な記憶を呼び覚まされ石器時代の女性のように
危険を感じるのです。脳を調べればわかります。経験した感覚と知覚されるすべてのものは、
感覚や印象が他の場所に記憶される前にまず頭頂葉が反応します。日常的な出来事や、勉強して覚えた情報は、
海馬の中で一度ファイルされて整理整頓され、その後、大脳皮質に蓄積されていくといわれています。
つまり私たちの脳の中で、「新しい記憶」は海馬に、「古い記憶」は大脳皮質にファイルされているのです。
海馬が情報を整理して、その情報を他の脳領域に送ります。または必要ない情報として消去します。
今日見知らぬ人があくびをしたことなどを大切な記憶としてとどめる必要はありません。
海馬のすぐ隣には偏桃体があり、全てのトラウマや恐怖を誘発するようなネガティブな出来事が
保存されている場所であり、これはまさに石器時代から受け継がれる(熊の唸り声が聞こえたら、逃げる!)
という経験が刻み込まれている場所です。入口が草で覆われた洞窟を見れば、頭の中の危険信号が
(危険レベル:強)を鳴らすきっかけとなるのです。そこが安全な洞窟だと知った後でも。
向こう見ずであるより臆病であること。それが命を救うのです。
偏桃体は命に係わる状況に少しでも類似性を感じると頭の中の警報器を鳴らして脳幹を活性化し、
分析から反射などという迂回をせずに、即、その場から逃げ出せるように踵に指令を出すのです。
人類にとって死よりも大きな恐怖とは何でしょうか?全ての意思を持つ死ある存在は、
死が必然であるがために死に対する恐怖が自然に組み込まれているのです。
しかし、多くの人は人生の終わり間際には死に対する恐怖が無くなります。それは何故でしょう?
まず、死に対する恐怖が若い時に無くなる事はあまりありません。ティーンエイジャーは自分の世界の中で
もがいて、自分の事で精一杯で、かろうじて自分以外の世界と平和に折り合いをつけているのです。
突然の死はとてもではないけれど耐えられないでしょう。
一方、白血病で新しい学年を迎える事は出来ないと数か月前から知っている同級生は、
老人が無意識のうちに到達する人生の満足に到達するかも知れません。
それは指をパチン!と鳴らせば起こる魔法のようには起きませんし、時間も掛かりますが、
それこそが本当の祝福です。
老年期に入ると偏桃体と前頭葉の新たなネットワークが形成されますが、このネットワークは
若者でも人生の終わりが見えた時、心の準備が出来ると形成されるのです。
同時に、危険に対して戦ったり逃げたりするように反応する脳幹の神経接続、こういった場合には
本当に全く助けにならないもの、は切断されるのです。平和にはそこに至る道があるのです。
ですがそこには予想通り落とし穴が待ち構えています。生に執着するとその道は閉ざされるのです。
死にまつわる最も恐ろしい経験は、私に予想もしなかった深い印象を残しました。
その老人は何か月もの間「もう自分は十分に長く生きた。もう死にたいのだ。」と言っていました。
死が本当に近づいた時、彼は「死にたくないんだ!」と言いました。
私はもうこれ以上はここで触れたくない彼の死に物狂いの抵抗と、痛み、苦しむさまを
一生忘れることは無いでしょう。その経験は物事を真剣に受け止め、思ってもいないような事を
軽々しく口にするものではないという教訓になりました。
もし、あなたが訳もなく不平不満ばかりを言っているのなら、
意識的に英知と平和に続く道を選択してみてください。このフラワーエッセンスを使ってください。
これはあなたの内であなたをつけ狙うスナイパーと折り合いをつけるフラワーエッセンスです。
あなたの内側に居るスナイパーは、忘れていた痛みをもう一度あなたに味合わせようと
忘れていた傷跡をこするのです。その存在が忘れ去られていたとしても。起きた事の何かが、
忘れていたトラウマの引き金となり、それに気づく前にあなたをパニックに引き摺り込むのです。
何故スナイパーに例えるのか?ですって?それは、あなたをパニックに陥れようとしているものは
どこに潜んでいるのか、いつ攻撃されるのか全く分からないうえに、あなただけを狙うのでスナイパーと
呼んだのです。ウィローハーブは私たちが忘れていると思っている傷も癒す花です。
その傷は意志をもって対面するにはあまりにも苦しいのです。あなたが頑張って押しやって押し込めて、
起こったことすら忘れた傷。しかしそれは自己の平和を叶えるにはその傷に直面するというステップが
不可欠であり、このエッセンスはその辛い過去の傷との直面を容易にします。
これは賢く知恵に溢れた老婦人のようなエッセンスです。多くの事を経験し、そこから学んだ彼女は
若かったころのように日常のストレスに悩まなくなったのです。彼女は主人公ではなくなり
少し後ろに下がって孫の世話をしていますが、重くのしかかるような責任の代わりに楽しんでいます。
子供の責任は養親が担うものであり、子供たちが両親の元へ帰るとお祖母ちゃんは一息つきます。
それは素晴らしい時間だけれども、もう十分。お祖母ちゃんは物語という物語を知っていて、
その物語を孫たちに上手に語ります。彼女もまた小さなころにお祖母ちゃんがそうしてくれたのを
とても良く覚えているからです。彼女は物事を必要以上に深刻に考えはしません。
何故なら、傷はいつか癒える事を知っているからです。
そしてその傷にキスをすれば治りがもっと良いことを知っているからです。樺の木は穏やかに優しく
慰めを必要とする人を少し多めの愛と沢山のユーモアと理解をもって受け入れてくれるのです。
トウヒは樺の木のパートナーです。賢明な老人です。そこに柵があればケガをしないで済む
と分かっているどころか、それが無くては痛い思いをすることを知っていても彼は柵を置かず、
微笑みを浮かべて見守ります。彼は簡単に動揺したりはせず、自分もした過去の失敗を思い出し、
誰もが自分が犯したような失敗をしなければ成長しない事を知っているからです。
もちろん、彼は人が経験すべきことの邪魔をするよりも、とても重要な事を気づかせる前に
少し皮肉っぽい笑いが教訓として起こることを好みます。彼の優しさとユーモア、人生経験、
その知識と知恵は内なる平和と組み合わされて、彼は家族の静かで平和な避難所となり社会的的秩序を保ち
共に暮らすのです。あなたはお祖父ちゃんには両親に話したくないような事も話したくなるのです。
トウヒはそのようなエッセンスです。スプルースのエネルギーは落ち着きと穏やかさと、
より高い視点から物事を見られるようにします。
この三つの花のエッセンスはあなたが死に至る時や、誰かあなたの大切な人が死に向かってるときに
穏やかな気持ち、真実から目を背けずに消化すること、愛、理解、そしてユーモアをもたらして
受け入れる事を助けてくれます。そして、死という大きな出来事でなくとも保護と慰めを与えてくれますが、
その保護と慰めはただ甘やかすのではなく、あなた自身があなたを落ち込ませるものや無気力といった、
あなたをダメにしてしまうものを振り払い戦うようにと後押しします。
見たり感じたりしただけで自動的に不安になるものから回れ右して遠ざかり、
安心、安全と心地良さを求める人はこの三つのエッセンスを使ってください。