松川サリー
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<スピリチュアル・ロゴス>
.~神の手足~
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<スピリチュアル・ロゴス>
聞きなれたスピリチュアルな言葉を、新しい観点から解き明かし、本当の概念を復興させていきます。また、言葉を知ることで、魂の真実に近付いていきます。
奇しくも、ミルカさんによる、創造者からのメッセージもありました。
信仰について語られています。(『人を操る宗教なしに、自分の心で神を受け入れるには』)
「神の手足」という言い回しをお聞きになった方々も多くおられるのではないでしょうか。
スピリチュアル系や宇宙人系の発信よりも、宗教的意味合いの強いところからの発信のなかに、よく見かける表現かもしれません。また、いわゆる宗教に深く関わっておられるとか、確固とした形の信仰を持っておられる人々には、馴染み深い言葉となっている、ということもあるでしょう。
たとえ馴染みがなかったとしても、耳目に触れたとき、なんとなくその言葉の意味が自然と想像されるのではないでしょうか。
神の手を持つ外科医とか、サッカー選手で言うところの黄金の左足、などという人間の持つ神業を表しているのではない、ということを付け加えておきます。
では、信仰とは、信仰心とは何でしょう、と問い掛けますでしょうか?
信仰と信仰心は違います。
信仰には、信じて疑わない明らかなる対象があります。
信仰心は、自分と宇宙を信じる心であり、肉体の目には見えないものに高い価値を置くことのできる心のことです。
信仰は、心の拠り所とする対象を中心に、集団が作られていきます。宗教です。
信仰心は、静かな瞑想と祈りのなかで、自分と宇宙を感じ、魂と魂のつながりを沈思します。自分と宇宙の関係です。宇宙の法則を知り、本当の自分を知り、大きな愛を知ります。
「私を神の手足としてお使いください」と祈っている人がいます。神の手足となってこの世で神の役に立つことが、人生の聖なる使命であると真剣に思い、心から願っているのです。あるいはまた、私たち人間は神の手足なのですよ、と信者に切々と語る説法者もいることでしょう。
「神の手足」とは、どんな意味を持つのでしょう。
特定の信仰を持ち、神の手足として自分が使われること、あるいはそれを願うことが清らかで尊い信仰心を持っている証拠であると思い込んでいる人々は、「この世での掛け替えのない役割」と捉えるでしょう。人間は、神のために働く、神が望んでいる世界を創るために働く、そのために神は私たち人間を使っている、ゆえに、私たちは、神の手足なのである、という思想です。そのためならば、自己犠牲は惜しみません。
それは、神の教え(教義)なるものを広める、という、いわゆる伝道の行為にもつながるでしょう。良い事を伝えることは悪いことではありません。思い悩み、苦しんでいる人は、ある宗教的な教えを知ることで、救われることもあります。
これまでは、神の下に自分を置き、大きな存在にひれ伏すことで、救済の世界へと参入していました。そしてそれは、不運なことに、この世的権力に悪用され、人々を束縛し、操作するという状況を招くこととなりました。
今、時代が進み、私たちの意識は変容しています。
「神の手足」は、神のために使われる手足ではなく、私たちが分かれて来たところの神と呼ばれている創造者が自ら成長するため、その意味で、私たちは神の手足です。創造者は、私たちを通して、様々な感情を体験している、ということです。そして、さらに大きなエネルギーとなっていきます。
私たちもまた、それぞれがそれぞれの魂を生き、人生を体験し、器を大きくし、そして、浄化されていきます。
私たちの道は、創造者のもとへ回帰する道です。創造者は、私たちの人生を通して私たちとともに成長しています。
そのことに、私たちが気付くときが来ました。ひれ伏したり、萎縮したり、神様のために何かをしたり、それをしないとバチが当たったりする、そのようなことはないのだ、ということが分かりはじめました。ましてや、神の化身などと称する誰か人間のための手足、などでは毛頭ありません。
「神の手足」とは、創造者が、地上の魂たちが体験する出来事や感情を同時に体験する、そのための私たち、のことです。私たちの地上での、地球での人生です。人生における私たちの学びのことです。確かに、神の代わりに動かす手足ではありますが、神の命令や望みのために働かすものではありません。「私たち人間の喜びは神の喜び」「私たちが悲しんでいるとき神も一緒に悲しんでいる」とずっと言われてきたのは、そのことです。
私たちは、創造者とともに成長し、創造者もまた、私たちとともに成長していっているのです。
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