松川サリー
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~「出生前診断」と選択的中絶、そして生まれてこない権利とは?~
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日本でも、「新型出生前診断」の実施指針が決まり、早ければこの4月から、臨床研究という形での検査が始まります。約20の医療機関が準備を進めているそうです。
出生前診断とは
『妊婦の採血だけで、胎児の複数の染色体異常の有無を高精度で判別できる検査。対象は、染色体の数が1本増えるダウン症や13番、18番トリソミーなど。母体血清マーカー検査や羊水検査より早い妊娠10週前後から検査できる。臨床研究で使う米シーケノム社の検査は、陽性と判定された場合でも、35歳の妊婦では胎児がダウン症である確率は80%で、羊水検査で確定する。陰性の場合は、ダウン症でない確率が99%以上とされる』(毎日新聞より)
さらに記事を抜粋します。
『検査結果と中絶の関係について、指針は「簡便さを理由に広く普及すると、出生の排除や生命の否定につながりかねない」との懸念を指摘。「十分なカウンセリングのできる施設で限定的に行なわれるにとどめるべきだ」などとして実施施設に染色体異常の診断経験がある産婦人科医と小児科医の常駐などを求めた』
対象は、高齢妊婦に限られているようですが、この検査は何のために受けるのでしょうか?
安心するためですか?とはいえ、この検査で分かるのは、ダウン症や発育不全を引き起こす13番、18番トリソミーなど三つの染色体異常で、それは、全ての先天異常の2割に満たない、ということです。さらに、陰性と判定されても、何の異常もなく生まれてくる保障はありません。
心構えを持つためですか?異常あり、という結果を受けて、その子が誕生してからのちの生活について、前もって準備を進めるためかもしれません。
それとも、産まない選択をするためですか?
「ロングフルバース訴訟 ロングフルライフ訴訟」という訴訟をご存知の方も多いかと思います。
『wrongful birth 訴訟とは、先天的な疾患、障害がある子どもが生まれた場合、親が、その出産はwrongful birth であると主張し、選択のための情報提供義務違反を医師、病院に主張する訴訟です。wrongful life訴訟は、その子ども自身が苦渋に満ちた人生が損害であるとして損害賠償を求める訴訟です。
アメリカの裁判所は、子どもによる請求を否定していますが,フランスの最高裁は、2001年、ダウン症候群の子どもに「生まれてこない権利」を認め、医師に損害賠償を命じています』
もう10年以上も前に、このような訴訟が行われていたことを、恥ずかしながら、半年ほど前でしたでしょうか、私が知ったのは。アメリカで、障害を持った人自らが、生まれてこないことができたのにどうして生まれさせたんだと裁判を起こしている、というニュースを耳にしたときのショックは、驚きではなく、悲しさでした。うそでしょう、と。
そこには様々な事情がありましょう。それは十分に理解できます。
親が障害のある子を産まないほうが良かったと思うことも、本人が生まれてこなくてもよかったのにと思うことも、どちらも悲しいことです。
例えば、親は障害のある子を受け止めて、愛して、育ててきたのに、子供から、生まれてこないほうが良かった、と思われたとしたら、あるいは、子供のほうは一生懸命生きているのに、親のほうが産むべきじゃなかった、間違った出産だったのだと思っているとしたら、あるいは、子供が自分の障害が親を苦しめていると思い込んで、自らを責めているとしたら・・・・などなど、様々な思いが私の心を過ぎりました。産んじゃってごめんね、と涙する親の心は、悲痛な愛の表れかもしれません。
なかには、ひょっとして、この権利の主張が通ることをいいことに、損害賠償目当ての訴訟を起こそうなどと考える、あるいは、周辺がそのようにそそのかす、というようなこともあるかもしれません。
いえ、私たちはよく言います。言わなくとも聞いたことがあります。生まれて来たくて生まれて来たんじゃない!勝手に生んだんじゃないか。どうして僕を、私を生んだの?テレビドラマでも見たことのある迫真の場面です。特別な障害があるとかそういったことではありません。人生の道を歩んでいるなかでの出来事です。
「ロングフルバース訴訟 ロングフルライフ訴訟」のことを知ったとき、ミルカさんは何と言うだろうか。いえ、創造者は、と言ったほうが良いでしょうか。私はそう思いました。私の心は、いささか沈んでしまって、慰めの言葉を欲していたのでしょう。
ダウン症の子供を持つある母親が、「お腹のなかにいるときにすでにダウン症だと分かっていたけれど産みました。私の大切な子供ですから」と言っているのを、テレビの報道番組の取材のなかで見たことがあります。その人のお子さんは、一人目も二人目も、ダウン症児でした。
検査判定によって、どのような選択をするかは、それぞれの裁量、気持ち次第です。ネガティブな決断をする人もいれば、そうでない人もいるのは、もちろんのことです。
出生前診断は、科学の発達によって可能になった医療、医学であって、ほんの少し前なら、それによる選択肢の存在に右往左往したり、心を痛めたり、悩ませたり、迷ったり、あるいはその選択の結果、自責の念に駆られたり、ということはないことでした。
医学の発展と共に、助かる命が増えました。と同時に、助かったことによる弊害や不満、医療的延命治療による戸惑い、臓器移植、生きていてほしいが金銭的負担も大きいなど、様々、悩みも増えることとなったのかもしれません。それは、大多数のことではないかもしれませんが、確かに存在している現代のジレンマなのです。
選択できるのにしなかった、選択させてくれなかった・・・。
出生前診断にせよ、延命治療にせよ、臓器移植にせよ、選択肢というものがあるのなら、生と死のどちらを選択しようとも、その選択に満足とは言わないまでも、納得を得るためにはどうしたらよいのでしょうか?
さて、普通に考えまして、堕胎、ということを良い事だと思う人は少ないでしょう。意味合いは少し違いますが、自殺を良いことだと思う人も少ない・・・否、おそらくほとんどいないでしょう。立派なことをしたね、と誉められる行為ではないのは確かです。思想的にそれも可、と思う方もおられるかもしれませんし、尊厳死、ということもありましょう。あるいは、遠い別の惑星では、自殺を認めている文化もあるでしょう。アメリカのSFドラマ・映画「スタートレック」では、確か、バルカン人は自殺を認めていました。
敬虔なキリスト教徒の場合、中絶を否としているということで、それが、選挙の争点にもなり、投票の際のポイントのひとつとなったりします。
日本ではどうでしょう?
あからさまに良い悪いと叫ぶ人はいないようです。しかし、心情的には多くの日本人が、中絶は悪いこと、と思っているのではないでしょうか?ゆえに、こっそりとする、のです。
年間、どれほどの中絶手術が行なわれていることでしょう。そして、中絶したあとはどうですか?そのことを全く気に掛けないように見える人もいましょうが、しかし、心のどこかで大なり小なり、気に留めていて、自責の念を手放すことができていないというのが本当のところではないでしょうか。
そして、どうしますか?
大抵は、思い出しながらも何気なく過ごすことができるかもしれません。が、ときどき困ったことが起こると、あれのせいかな、と思うことがあるかもしれません。重症の人ですと、良くない出来事の原因がいわゆる「水子」だなどと、どこぞの怪しげな人に言われて、お払いをしなさい、壺を買いなさい、と誘導されてついつい大金を渡してしまう、ということもあるのではありませんか?これもよく聞く話です。
人は、たいていのとき善悪で判断しています。それは、私たちの魂を成長させるための心の葛藤であり、現実的選択です。そこには、ある程度の基準があって、それは、良識とか良心とかいう誰の心にも存在するピュアな部分を土台としているのです。
ゆえに、善悪の判断は大切なことです。善悪を知らずして、この世を渡っていくことはできません。この世的な堕落、誘惑にも気付きません。
ですが、宇宙的にもさらに新しい段階に入った私たちは、善悪だけで見るのではなく、どう処理されたかで物事を理解していく、ということも同時に求められています。
上記の裁判のニュースを見たとき、私はとても悲しくなったわけですが、その理由は、生まれてきたこと、産んでくれたこと、そして、家族と共にいることの幸せを感じることもできず、さらに、自分自身を愛せないという心情を感じたからでした。
そこには「愛」というものが介在していないのです、全く。親にも子にも周囲にも。
親なら、我が子がどのような姿、状態であっても、愛おしいと思う気持ちを忘れることはできないはずです、本当は。もちろん、障害があれば、苦労も多く、現実的な生活面も大変です。精神論や愛情論だけで語れるものではないかもしれません。
余談ですが、不思議なことに「いとおしい」には、かわいそうだ、という意味もあります。心の機微、ですね。
出生前診断を受ける人は、生まれてくる子が障害を持っているかどうかを調べて、何を期待するのでしょう。やはり、安心したい、というのが一番の気持ちでしょう。十箇月間、どうだろう、だいじょうぶかな、と心配して過ごすこともまた、色々な意味でよろしくありません。それでなくとも、妊娠、出産には、子供が無事に産まれてくれるのか、母体はだいじょうぶか、という面もあり、昔に較べて減ったものの、それでもいまだにリスクの高いイベントであることにかわりはありません。
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